武州桑都徒然日誌

高尾山、温泉、バイク、写真・カメラ──懐かしさと好奇心を詰め込んだ、気ままな日誌。

【廉機礼讃】#03 DAISO「カメラくん」を楽しむ

写るかどうか、その不確かささえ楽しさの一部

こんにちは。
現在のデジタルカメラで「最も高いカメラは?」と聞かれたら、やはりライカが思い浮かびます。 最新機種ライカ「 M11-P 」は156万2千円。さらに最高峰のレンズ「ノクティルックス M f0.95/50mm ASPH.」は206万8千円。セットで実に363万円になります。 簡単には買えない価格ですね。(価格は2025年12月ライカオンラインストア表示価格)

ライカ 左;M11-P 右;ノクティルックスM f0.95/50mm ASPH. セットで363万円 (引用)ーライカWebカタログ

高価ですが風格と魅力に溢れています。繊細なピント、ふんわりと とけるようなボケ味――きっと見る人を魅了する写真が撮れるのでしょう。少なくとも「良い写真が撮れないのはカメラのせい」とは言えませんね。

さて、今回紹介するのは、その対極ともいえる“最も安いカメラ”。 その名も、100円ショップ DAISO の「カメラくん 」。2000年代前半、本当に「100円」で販売されていたフィルムカメラです。黒・青・赤・黄とカラーバリエーションも豊富でした。箱入りで説明書も付いていました。

DAISO「カメラくん」 100円とは思えない高級感? ストラップ付 質量実測107g

レンズの焦点距離はおそらく35mm前後、明るさは F11 くらいでしょうか。シャッタースピードは1/100秒くらい。ピントは固定です。35mmフィルム(ASA400が良い)に写し込みます。(このカメラが売られていたころはDAISOで100円のAGFAフィルムが売られ、現像も100円でやっていたように思います)

No,309の意味は不明 底面に小さなフィルムカウンターがあります

しかし、100円のカメラとは本当に驚かされます。 誰もこのカメラで本格的に写真を撮ろうとは思わなかったかもしれませんが、小さな子どもがこのカメラを手にして写真の楽しさを知り、写真の世界に足を踏み入れるきっかけになったのだとしたら、とても大きな意味を持つカメラだったのではないでしょうか。

この「カメラくん」を持って、東京・高尾山の紅葉祭りに出かけてきました。 ガリガリと手応えのあるギヤを壊さないように丁寧に巻き上げ、光のよく当たる場所にカメラを向け、息を止めてシャッターボタンをゆっくり押し込むと――バチンッ!というバネの音とともにシャッターが切れます。(以下、「カメラくん」で撮影 フィルム;FUJIFILM 400)

東京都心 新宿から電車で約1時間 終点「高尾山口駅」(2025年撮影)

解像度がどうとか、ボケ味がどうとか、そんなことはこのカメラには関係ありません。 ただただ「写っていてくれ」と願うだけです。

左;ケーブルカー「清滝駅」  右;薬王院の天狗さま(2025年撮影)
左;山門付近の紅葉 右;参道木漏れ日 (2025年撮影)

高尾山薬王院名物 かりんとう 中央部はシャープに写る(2025年撮影)

参道の老舗のまんじゅう屋さん(2025年撮影)

フィルムの現像は「カメラのキタムラ」さんにお願いしました。600万画素のデジタルスキャンも依頼したため、仕上がりまでに3週間。 この待っている間のワクワク感は、363万円のライカでも味わえない楽しさかもしれません。 写りも予想以上で、発色は鮮やかです。3〜5mくらいの距離ではピントも悪くありません。残念ながら現在は販売されていませんが、このカメラが100円とはDAISO恐るべし。紅葉祭りの思い出を残す事ができました。

シリーズ「廉機礼讃」は、決して高価ではない、普及機として開発された古いカメラやレンズに光をあて、その良さを味わい開発者の想いを今に感じるシリーズです。(レンズ性能に関しては精密計器等による計測などはできておらず筆者の印象です。設計意図なども当時の関係者に伺ったわけではなく推測です。何分、誤った記述もあるかと思いますがご了承の上、拙文ご笑覧下さい)

※本記事に掲載している筆者が撮影した写真・画像の無断転載・転用を禁じます。著作権は撮影者に帰属します。

【時空の肖像】#18 国産旅客機「YS-11」

技術者たちの平和への願いとともに「日本の空を日本の翼で」

1962年(昭和37年)初飛行  国産旅客機「YS-11」(2025年撮影)

こんにちは。
写真は1962年(昭和37年)8月30日に初飛行した国産旅客機「YS-11です。1965年(昭和40年)に定期運航が始まり、2006年(平成18年)9月30日を最後に国内定期便から姿を消しました。試作機2機を含め、182機が生産されています。

この機体は、埼玉県所沢市航空公園駅」東口広場に保存されているものです。1997年(平成9年)4月13日、ANA大島-東京便の運行を最後に引退しました。

YS-11」という名称は、「輸送機設計研究協会」の輸送機を示す“Y”、設計の“S”、そしてエンジン案1号・主翼案1号“11”に由来します。

全長26.3m、全幅32m、定員約60名の地方路線向け中型機で、短い滑走路(1200m級)でも力強く離陸できるよう、直径4.42m異例の大径プロペラと、これを効率よく回すターボプロップエンジンが採用されました。

展示機体 国産旅客機は後にも先にも「YS-11」のみ(2025年撮影)

戦後の日本が初めて独自に開発した旅客機であり、完遂に対し技術者たちの強い使命感がありました。官民合同の“オールジャパン”体制で挑んだ国家プロジェクトで航空会社も開発に参画しました。また戦時中に戦闘機を手掛けた技術者たちも初期設計に参加し、「技術は平和のため、人々の幸せのために使いたい」という強い想いを胸に設計に臨んだといいます。モックアップには西陣織の座席が使われるなど、細部への美意識も込められていました。

もちろん、旅客機をゼロから開発する道のりは平坦ではありませんでした。厳しい型式認定の取得には多くの困難が伴いましたが、技術者たちは粘り強く挑み改良を続け、安全で信頼性に優れた機体を完成させました。

完成後は海外販売にも力を入れましたが、当時は日本製品の品質がまだ十分に評価されておらず、敗戦国というイメージも重なり、足元を見られ苦戦を強いられたそうです。

YS-11」は技術面・販売面で課題を残し、必ずしも“大成功作”とは言えない部分もあります。しかし、「日本の空を日本の翼で」という技術者たちの信念と執念が形となった、「戦後日本の技術復興を象徴する機体」であることは間違いありません。今後もこの展示機体を通じ、その想いが語り継がれていくことを願います。

ー2007年 日本機械学会機械遺産」 認定
ー2008年 日本航空協会「重要航空遺産」 認定

【補足】
2026年現在、民間機としては引退しましたが、航空自衛隊入間基地では現役機として活躍中です。また日本各地で展示保存されています。

赤丸に展示されている (引用)ー所沢航空公園Webサイト

駅の時計の針はプロペラを模しているが正直、分かりにくい(笑)(2025年撮影)

【追記】
地球の陸地のわずか0.25%の国土しか持たず、資源も乏しく、戦争により焼け野原となった日本が技術大国・経済大国へと成長したことは奇跡と言ってもよいでしょう。その奇跡を支えたのは、国や会社のために、誠心誠意働いた先人たちの努力でした。「YS-11」の開発は、その象徴の一つだと感じます。精神論や根性論は過去のものになりましたが、先人たちの努力に対する感謝の気持ちは忘れずにいたいものです。

シリーズ「時空の肖像」は、古き良き建物等をモノクロ、横長のパノラマ写真として撮影し、その歴史や開発者の想いについても振り返る写真シリーズです。

※本記事に掲載している写真・画像の無断転載・転用を禁じます。著作権は撮影者に帰属します。

 

【時空の肖像】#17「JR奥多摩駅 駅舎」

大都市の果て、大自然への境界駅

1944年(昭和19年)竣工「JR奥多摩駅 駅舎」(2025年撮影)

こんにちは。
写真は東京都西多摩郡「JR奥多摩駅 駅舎」です。1944年(昭和19年)、戦時中に「氷川駅」として開業しました。JR青梅線の終着駅であり、東京都で最も西に位置する駅です。標高343m、都内の鉄道駅としては最も高所にあり、奥多摩の山々への玄関口として知られています。1971年(昭和46年)に奥多摩のシンボルとすべく「氷川駅」から「奥多摩駅」へと改名されました。

外観はヨーロッパの山岳ホテルを思わせる山小屋の佇まい。木造2階建ての瓦葺き屋根に、丸窓や木肌の質感が映え、自然との調和を意識した温かみのあるデザインとなっています。駅名板も著名な作家によると思われる筆文字と彫刻で描かれ、駅舎全体に独特の風格を添えています。

山小屋風と言われるが、自分には老舗の温泉旅館の方がイメージが合う(2025年撮影)

2019年(平成31年)にはJR「東京アドベンチャーライン」の終着駅として大幅に改装されました。ユニオン建設株式会社さんが工事を担当し、山小屋風の外観はそのままに、登山客や観光客に配慮した機能的な駅へと生まれ変わりました。木のぬくもりを感じさせる見事な施工です。駅舎2階のカフェ「PORT OKUTAMA」もリニューアル、ライブイベントなども開催され地域の魅力を発信する拠点、憩いの場として親しまれています。

JR東日本の観光広告 (引用)ーJR東日本Webサイト

建設当時と同じ  木のぬくもりを感じる内部(2025年撮影)

駅舎2階のカフェ「PORT OKUTAMA」への階段(2025年撮影)

一方で、「奥多摩駅」の原点は観光ではありませんでした。戦時下の建設・工業需要に応えるため、石灰石の輸送拠点として建設されました。また、東京の水源確保のために建造された小河内ダムの資材輸送にも大きな役割を果たし、国家的なインフラを支える重要な物流拠点でした。

つまり、当初の”奥多摩駅”は「山奥の観光駅」ではなく、都市の生命線を支える「戦略的な物流駅」だったのです。それは戦時下ゆえ、木造の突貫工事での建設だったのかもしれません。

しかしながら、この駅舎には効率だけでは語れない美意識が宿っているように思えます。山小屋風の意匠を施したのは、厳しい時代にあっても風景と調和する建築を求めたからではないでしょうか。そこには「美しいものを残したい」という関係者の静かな願いが息づいているように感じられます。

駅の周囲にはこの景色が広がる 聞こえるのは川の流れる音だけ(2025年撮影)

現在、「奥多摩駅」は登山愛好家や観光客に愛され、穏やかな時間が流れる駅となりました。長い歴史の中で役割を変えながらも、変わらず山と人をつないできたこの駅には、時代を超えて受け継がれる“境界の気配”が漂っています。大都市の果てにありながら、ここから始まる風景はいつも新しく、訪れるたびに心を静かに整えてくれる。「奥多摩駅」は、そんな不思議な力を持った駅だと思います。いつまでも今の姿で人々を癒してほしい駅です。

ー1997年 関東の駅百選 選定
ー2019年 鉄道建築協会賞  佳作 受賞

シリーズ「時空の肖像」は、古き良き建物等をモノクロ、横長のパノラマ写真として撮影し、その歴史や開発者の想いについても振り返る写真シリーズです。

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【時空の肖像】#16 国立天文台「第一赤道儀室」

武蔵野の森に静かに佇む天文学の老名誉教授

1921年(大正10年)竣工 国立天文台「第一赤道儀室」(2025年撮影)

こんにちは。
写真は東京都三鷹市国立天文台にある「第一赤道儀室」です。1921年(大正10年)竣工で、三鷹キャンパス最古の観測施設です。

東京天文台が麻布から三鷹へ移転する直前に建てられ、近代日本の天文学の出発点を象徴しています。

森の中に静かに佇む「第一赤道儀室」時間の長さを感じる(2025年撮影)

鉄筋コンクリート造りの2階建て、高さは7.8m。上部には直径6mのドームを載せた端正な円筒形で、無駄のない美しい姿が印象的です。ドームは鉄骨に木板を貼った構造で、手動で一部が開閉し、全体が回転します。

設計は東京帝国大学営繕課、施工は西浦長大夫氏。学術施設としての機能性と堅牢性を重視した設計が特徴で、武蔵野の森の中に建設当時の姿のまま静かに佇んでいます。訪れると、時の流れがそのまま封じ込められているような感覚を覚えます。

回転式木製ドーム(2025年撮影)

小さなバルコニー(2025年撮影)

内部の床は板張り(2025年撮影)

奥には小さな勉強机(2025年)

内部には、1927年(昭和2年)設置の太陽観測用の口径20cmカール・ツァイス屈折望遠鏡が据えられています。1938年(昭和13年)から61年間にわたり太陽黒点の観測が続けられました電気を使わず、「おもり」と「歯車」だけで約1時間半、太陽を自動追尾する赤道儀は非常に珍しいものです。機械式で精度を出すのは非常に難しく現代では作る事ができない匠の技術です。注油や校正など日常のメンテナンスも必要なのではないでしょうか。そして小さな机が置かれた質素な空間が、静かな研究の時間を今に伝えています。

ドイツ カール・ツァイス製20cm屈折望遠鏡と赤道義(2025年撮影)

ドームを回転させるレール(2025年撮影)

手書きの説明、いつからあるのか?(2025年撮影)

黒点観測は、日常生活に影響する太陽活動を知るうえで最も基本的で重要な観測のひとつです。そして現在、日本の天文観測技術は世界トップレベルにあります。「第一赤道儀室」は、その礎を築いた多くの優秀な研究者を生み、育ててきた場所でもあります。

現在は無料で一般公開され、休日には太陽黒点観測の体験会も行われています。天文観測の重要性や楽しさを共有する場として、大きな役割を果たしています。建設から100年以上が経過していますが、まさに“現役”と言ってよいでしょう。

今後も必要な補強や補修を重ねながら、現在の姿のまま、科学技術の歩みを後世に伝え続けてほしいものです。

ー2002年 国の登録有形文化財 登録

研究施設として化粧直しなどはせず時の流れをそのまま受け入れている(2025年撮影)

【補足】
国立天文台「第一赤道儀室」は、東京海洋大学・旧天体観測所/第一観測台・第二観測台に次ぐ日本で3番目に古い観測施設ですが、現存する稼働可能な施設としては日本最古と思われます。

【追記】
三鷹国立天文台には、ほかにも天文学の100年を物語る建物や装置が保存・公開されています。森の静けさの中で研究者たちの時間や空気が今も息づく場所です。ただの“見学施設”ではない不思議な空間です。もちろん、最先端の技術にも触れることができます。何度も訪れたくなる、とても魅力的な場所です。

見学コースMAP (引用)ー入場時配布資料

古い施設だけではなく最新観測技術の展示室もある(2025年撮影)

国立天文台三鷹の敷地内はこんな感じ(2025年撮影)

【参考資料】
国立天文台公式サイト →リンク第一赤道儀室 | 国立天文台(NAOJ)

国立天文台公式音声ガイド →リンク| 国立天文台 三鷹キャンパス 音声ガイド

シリーズ「時空の肖像」は、古き良き建物等をモノクロ、横長のパノラマ写真として撮影し、その歴史や開発者の想いについても振り返る写真シリーズです。

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【時空の肖像】#15「水戸市水道低区配水塔」

街の近代化のシンボル、日本で最も美しい配水塔

1932年(昭和7年)竣工 「水戸市水道低区配水塔」(2025年撮影)

こんにちは

写真は1932年(昭和7年)竣工、茨城県水戸市の「水戸市水道低区配水塔」です。

高低差が約24mある水戸の市街地を「上市」と「下市」に分け、下市側への配水を担うために建てられたそうです。大変美しい塔であり、近代水道の黎明期における技術と美意識の結晶です。

1999年(平成11年)3月まで水圧調整施設として活躍していました。

塔の構造は、高さ21.6メートル、直径11.2メートルの鉄筋コンクリート造。水槽は鋼鉄製で、内径8メートル、水深6.5メートル、容量358立方メートル。接合部はすべてリベット止めという、堅牢かつ精緻な構造です。

設計を手がけたのは、東京、津、熱海、真鶴などで豊富な水道開発の経験を持つ水道技師・後藤鶴松氏。ゴシック風の入口、バルコニー風の回廊、消防ホースを象ったレリーフ、丸窓やアーチ窓など、当時の美意識と技術力が結晶した意匠が随所に見られます。

細部に渡り細かな装飾が施されている(2025年撮影)

1930年代、日本各地で近代水道が整備され始めた時代。水道は単なるインフラではなく、「近代化の象徴」であり、「市民の生活を支える誇り」でもありました。堅牢でありながら優美なこの建築は、「この街の水は安全で豊かだ」というメッセージを、静かに、しかし確かに伝えているようです。

いつまで見ていても飽きないデザインです(2025年撮影)

後藤氏は、起工式の日に生まれた娘に「塔美子」(とみこ)と名付けたと伝えられています。設計の初期段階からその名を心に決めていたのでしょう。とにかく美しいものにしたいという想いが、建築の隅々から伝わってきます。この塔は、氏にとって最後に携わった建築であり、人生の記念碑でもあったのだと思います。

左;入り口の銘板  右;敷地内に立つ流量計棟(2025年撮影)

水戸市水道低区配水塔」は水戸市のシンボルとなり、敷地は小さな公園として整備され、地域の憩いの場となっています。定期的に丁寧な補修が施されているのでしょう。昭和初期の建築とは思えないほどの清潔感と気品を保ち続けています。いつまでも水戸市民の誇りとしてその場にあり続けて欲しいと願います。

写真を撮り終え、立ち去る際に何度も振り返りました。必ずまた訪れたい。そう思わせる、記憶に残る素晴らしい建物です。

―1985年 近代水道百選 選出
―1996年 国の登録有形文化財 登録
―2006年 ヘリテージング100選 選定
―2014年 土木学会選奨土木遺産 選奨

【追記】
水戸市と聞くと、これまで「水戸黄門」や「わら納豆」くらいしか思い浮かばず、正直なところ知識不足でした。ところが実際に訪れてみると、街は美しく整備され、歴史ある建物や施設が数多く残されており、それらが大切に守られていることに驚かされました。落ち着いた時間を過ごせる魅力的な街で、ぜひまたゆっくり訪れたいと思います。

JR水戸駅前の水戸黄門と助さん、格さん像 水戸の水道事業の先駆けは水戸光圀さんだそうです(2025年撮影)

シリーズ「時空の肖像」は、古き良き建物等をモノクロ、横長のパノラマ写真として撮影し、その歴史や開発者の想いについても振り返る写真シリーズです。

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【時空の肖像】#14「旧四谷見附橋」

余生を過ごす都内最古の美しい陸橋、その姿は時を癒す

「四谷見附橋」(現名;長池見附橋)1913年(大正2年)竣工 (2025年撮影)

こんにちは。
写真は東京都八王子市別所、長池公園にかかる長池見附橋」です。

実はこの橋、もともと東京都千代田区の新宿通り(国道20号)に架けられていた1913年(大正2年)竣工「四谷見附橋」なんです。東京都内最古の陸橋です関東大震災や第二次大戦を耐え忍びました。

交通量の増加に伴い四谷見附橋は1991年、新しい橋に架け替えが行われましたが、文化財的価値の高さから旧橋は保存されることとなり、1993年に約30キロ離れた八王子市別所、長池公園へ移築されました。現在も一般道の橋として現役で人々の生活を支えています。

橋越しに見える公園の紅葉が美しい(2025年撮影)

設計は日本橋も手掛けた樺島正義氏。近隣の赤坂離宮(現・迎賓館)との調和を意識し、橋灯や高欄に優美な装飾を施したネオ・バロック様式の鉄製アーチ橋で、その姿は今も人々を魅了します。

鋼材は米国カーネギー社から輸入し、石材は小豆島産の花崗岩を使用するなど、当時の技術と美意識が凝縮されています。

移築工事は株式会社 川田工業さんが請け負い、単なる保存ではなく「都市の記憶を未来に継承する」という理念のもと、文化財的価値を守り精密に再構築する」大規模プロジェクトでした。

アーチ部分など主要構造の約84%は旧橋の部材を再利用し、高欄や橋灯は忠実なレプリカで再現されています(装飾のオリジナルパーツは新四谷見附橋に継承)。

美しい橋灯(2025年撮影)
左;橋欄干の装飾 右;小豆島産の花崗岩(2025年撮影)
左;橋中央に銘板「四谷見附橋 大正二年九月成」 右;レンガの目地は「覆輪目地」 (2025年撮影)

移築に際し詳細な調査の結果、100年以上前の鋼材が、強度を保ったまま再利用できることが分かり驚きだったそうです。また長年の使用による腐食などはありましたが、致命的な亀裂はなかったとの事です。オリジナル設計の確かさに感銘を覚えます。また、この移築を完遂した川田工業の皆さんの卓越した技術と情熱に、心からの敬意と感謝を捧げます。

橋の近くの広場に移設時に分かった技術的な解説が展示されている(2025年撮影)

長池見附橋」に名前を変え静かに余生を送る(2025年撮影)

現在、「旧四谷見附橋」は「長池見附橋」に名前を変え人々に愛されています。都心で交通に追われていた頃とは異なり、静かな余生を過ごしているかのようです。その美しい姿を眺めていると、時の流れを忘れ、静かな感動が胸に広がります。110年以上前の橋、今後もその姿をとどめて欲しいです。

【追記】
東京に残る装飾橋梁は、皇居正門の「石橋」、国道起点の「日本橋」、そして「旧四谷見附橋」の3ヶ所のみ。鉄橋としてはこの「旧四谷見附橋」が唯一残された貴重な橋だそうです。

ー 「登録有形文化財」認定
ー 「日本の近代土木遺産」認定
ー 「土木学会田中賞」受賞

【参考文献】 
ー 「四谷見附橋の移設・保存工事」 川田工業(株) 技術部、川田技報 Vol.10 1991/1
ー 「四谷見附橋移設復元工事誌」 住宅・都市整備公団 南多摩開発局 1994/3

シリーズ「時空の肖像」は、古き良き建物等をモノクロ、横長のパノラマ写真として撮影し、その歴史についても振り返る写真シリーズです。

※本記事に掲載している写真・画像の無断転載・転用を禁じます。著作権は撮影者に帰属します。